昭和四十年十月二十六日朝 特別奉修委員
一番滑稽なことは自分がでけもせずに、それを人にあゝせねばいけんとか、こうせにゃいかんとか云うて、要求するほどおかしな「
」あーそうですか、例えば聞きよっても心の中じゃ、わがでけばするごと と ね、とても自分がでけなきゃだめです。自分がなさなければ 自分がやり抜いて、やり抜いてみてそしてそれを結果がよいならば、その結果を皆さんに伝える、又、皆さんに要求するというわけではないでしょうけれども、それを聞いてもらうことなったら実感を盛って、相手に伝っていくです。
もう家の母がもう口ばっかり、ね、そしてから信心せろ信心せろち云うてから、例えば息子なら息子に云うた時ですたいねえ、これは信心だけの事じゃありません、一事が万事
勉強せろ勉強せろち子供にばかり云うちから、親はいっちょん勉強しよらん ね、精進せろ精進せろ、修業せろ修業せろと云うて言わば先生が信者に云いながら、先生がいっちょん修業しよらん。
こんな滑稽なことはないです、聞いておってから、御造営が始まってこの方、こうして特別奉修委員の方達が、御祈念の時に御祈念をなさいます、いわゆる特別報修と、の者がみどり会又は婦人会の方達がです、御祈念をするだけが奉修じゃない修業し奉る、というを その例えば御造営に対するところの修業がです、只御祈念をしてるということが修業とでも思うたら、私は大間違いだと思うですね。今日は総代さん方が集まって親教会に、私の学院入学の事についての、お伺いに参るわけです。
昨日 教務所次長、日吉先生、おいでられてからお話がですね、もう丁度去年の昨日、此処の総代全部と竹内先生、秋永先生、久保山先生やらを交えて、私の学院問題の事で行かれたのが、丁度一年ぶりだったそうですね、昨日だったそうです、それを所長が云われる 丁度去年の今日でしたよ。
皆さんも見えてから、色々とお話になってのは、というてハァー今日は一年祭ですね、ちいうてからその、お神酒が弾んだんですけれども、けれどもあの時分の椛目とですね、現在の一年後の椛目というものは、変わってもおいででしょうけれども、周囲も大変変わっておるという事です。
も、第一私は此の御造営が始めれたということがみたら、みんな変わられたということです、例えば周囲の関係の教会とか、先生方でも昨日も 一昨日ですかね、昨日一昨日福岡で、今日もキカン何とかの会があって、所長以下あちらへ見えておられるわけ、福岡にそれでもう会合の時に必ず椛目の話が、出らんはずはない。
もう非常にその、いわゆる椛目がクローズアップされておる、大坪、大坪先生とか、大坪先生の信心内容というものがです、ね、非常にその クローズアップされておる、しかも どうでも教会になって頂いて、お道の御用に立って頂きたい、どうでも正式に教師の資格を取って、本当の意味での教団の為に、活躍して頂きたいと、そういう又、こうさせなければいけんというのが、全部の話だそうですね、ですから、よい意味合いにおいての学院行きを、皆んなが願っておられるという事です。
例えば一年間椛目をやったら、椛目が困るじゃろといったようなこれはなきにしもあらず、それは一部にあるかもしれんけれどもです、もう殆どの椛目を知っておる方達の場合は、どうでも正式の教会にしなければ、勿体ないということ ようにそのクローズアップされてきたという事がです、一年の間に皆の間がもう、第一教務所自体がです、椛目に対するところの思いというものが、願いに変わってきとるということね、どうぞ、こゝんところを良図されて、どうぞおかげを頂かれます様に、というお話でございました。
例えば今日善導寺においでられて以降、お伺い、親先生は、例えばせめて、あの御造営が成就になりましてから、来年なら来年、来年じゃないですね、来年の 来春の五月から入学する訳ですから、再来年になるね、御造営もそすと終らせて頂いてから、といった様な訳にはまいりませんでしょうか。
先月、大会を開きまして、みんなの、いわゆる世論を聞きますとね、総代幹部の思いと、皆の思いというのが、足並みが揃わなければ矢張りいけんのでございますが、殆どの者が、親先生を御本部にやるという事は出来ん、できんならば検定ででも、どうでもというならば検定というところに線を絞っとります、と、どんなもんでしょうか、と云うてお伺いに行くだけなんだ。
今日総代さん方は、そばってんこういう様な訳で、だからやっぱり一年間やる腹にならなけりゃいけんよと云うたら、あーそうですかというて帰ってきてもらわなければならない、今日は、お使いをなさるわけなんです、ですから、皆さんとてもやっぱり一年間、私が此処を留守するという事をです、覚悟して頂かなければならないということです。
それが、どうでしょうかね、例えばこうやって奉修の一週間に一辺の、特別の御祈念をしとりますという事だけが奉修とでも思うたら、私はこれでは、心もとないという気が致しますですね。
どうぞおいで下さい、私共がおりますから、と、言わばそのものを称えてから、皆さん方が私を送り出して下さらなければ、私も安心して行けない。
昨日私に、所長先生がその事についてから、先生の忌憚のない「 」のないその気持ちを聞かしてくれと、ね、実際云うたら所長先生、私はね、もう本当云うたら、どうでもいいんです、それは私が、もう私の持論なんです、教務所に参りましてからでもです私は、去年も、一年前に申し上げた事も同じ事なんです。
私はどうでもいゝんだけれども、親先生が 親奥様がどうでも教師の資格を取らなければならない為に、一年行かなければならんと仰るから、そんなら行こうと云う気になってるだけであって、同時に金光様の、三代金光様のお言葉がです、美智の教師としてのおかげを受けられたがよろしゅうございましょう、という あのお言葉があるからです ねえ、教師の資格を頂く方法は、どういう方法で頂くか分りません、けれどもこれは頂かなければ教祖様の、先教主様のお心にも添うことになるし、けども実は、私自身としては、本当にどうでも良いのです、その結果のことを先生はどう思われますか結果のこととても、いうたらどうでもよいと思います と、したら久保山先生が、ねえ、椛目の信者はです、先生が例えば一年間あちらへ送り出しましても、それこそ今の信心が、いよいよ燃え立つことは間違いない、それこそ微動だも致しません。
その事の確信を持っとりますというてから、横から久保山先生か云われました。 果たしてそうだろうかね、それは先生が一年おられんぐらいな事で、椛目は絶対貧乏ゆるぎも致しませんと。
云うなら公言をしておられるがです、果たしてそうだろうか、私は横から付け加えました、それはね、確かに今椛目で中心になっておるという人達は、今、久保山先生が申しました様なことでございましょう。けれども、只 枯れ木の山も賑わい的な意味合いにおいてから、椛目に、椛目椛目というてからお参りをしておる人達はです、恐らく、私がおらんならこんかも知れませんて、それは一番はっきりしておることは、私がね、塗板に掲示しない、教は親先生がおられないという事の掲示してないけれどもです、私がいないとです、確かにお参りが少ない事は間違いないです。
それが、おらんという事が分かったら尚更、もう先生がおられんならおれ達もお参りすると云う様な人達が、やはり椛目のいわゆる沢山の信者の大部分がそれなんだと、だから、おそらくそれがですね、いうならば信心を止めるような人があるかも知れません、けれども只今申しますそこんところの、実を云うたら帰って( )四国の〇〇教会に というのがあって、丁度椛目の様なことになっておる、それを行徳先生から効かして頂いた話ですけども、その方が矢張りその所長先生 行徳先生あたりと一緒、同期だそうですねやっぱり仙人からの信者がったと、そりゃもう毎月毎月沢山のお参りがやっぱ御本部に押し掛けていった。
始めそうだったけれども、いよいよ一年終られてかえられた時にはです、あの頃は一年じゃなかったかも知れませんね、半年だったかも知れません、時にはもう誰ーれもいなくなっとった信者は、そして、その先生すらがです、何処に行かれたか分からなくなられた行方不明になられた。
その後の子供さんが教会をしとられるけれども、勿論、おはうちからした様な教会である事は勿論だろうと思います。
例えば椛目の信者は、ある意味合いにおいて、奇遇の念を持ってるわけなんですよと、ね、けれども今も申します様に、例えばよしそういうことであっても、私はどうでもよいのであります、とこういうのですけれども、今日一日のこのタイミングということを、林次長じゃない、あの日吉次長がいうておられました。
先程此処の委員長から、御造営の事について色々お話を頂いたが何という素晴らしい神様の働きであろうか、とこれは御本部の御造営の以上の奇跡だと云うておられます、そりゃ委員長が少し、こらオーバな話をしたからじゃなかろうかと、これは思います。
そういわれました、御本部の御造営以上の奇跡だ、そういうおかげを受けておるのである、同時に私が申しましたね、此の御造営の事などでもです、ね、私が思い立った訳でもない、もう本当に神様が思い立っとられるな、神様が先頭に立っとられるなあ という感じ、それが私共の実感なんです。
その中心になるところの私自身がです、だからその神様の御造営のです、神様が先に立って働いて下さってる、その働きのお邪魔にならないように、と云う事だけでいっぱいなんです、私はその事だけに焦点をおいて、信心をさして頂いとりますと、私が申したら、非常にそのところを、普通なら御造営成就の事を祈り、願うということですけれども、私はそうじゃない、それは何故か、というと、神様の働きであり、神様のおかげを受けておるからです。
その お邪魔にならない様にということだけに、私は焦点をおいておる、そして昨日の 人ながらと神ながらの事について、私お話いたしました。そういう神ながらの働きの中に、信者一同の人ながらの信心というものが、ここに渾然として一つになって、あいよかけよの働きというものを、椛目で現しておるという事を、私お話したんです、ねえ、だからこれが、このまゝおかげを頂いて、いや、このまゝじゃない、このまゝ以上のです、働きになってくる先生がおられない、久保山先生が仰ったように、椛目の信者はその様なことで、貧乏ゆるぎもする事じゃありません、微動だも致しませんとこう公言をされたようなです、信心内容がです、果たしてお互いの現在の信心のなかにあるだろうか、いやそん時にはそん時にやりますが、という事だけでは心もとないじゃないか、ということです、昨日の椛目の全財産は七十八円です。
ハァーこれが椛目の全財産なんだ、勿論、今日お初穂箱にどれだけ入っとるかそりゃ分らんけれども、と云うてから話した事でしたね、井上組から、言わば請求がありました、それに向こうから、どうでも矢張り足りないと云うので、それなら百万だけかててやりなさい、向こうの請求にといって、銀行に参りましたら、きっちりそれだけだった、いわゆる七十八円という金が余っただけ。
昨日、高芝さんが銀行行っとられますから、一番ご承知でしょうそれが昨日の一時の椛目の財産なんです、この事だけでも、こりゃ大変でしょうが皆さん、只、御祈念をして拝みだすだけじゃいかんという事です、本気に尻ひっからがなければ、本気におかげを受けなければ。 昨日おとといでした、森部の高山さん達が、夫婦でお礼に見えられました、奥さんのお届けなんです、今朝方からお夢を頂きました、色々お夢を頂いとられる、私にこういう信心を神様が求め給うのでございましょうと云うて、話されました。
どうも場所は東京のプラットホームらしい、の様な感じなんですそこに降りたっておるのが、私と熊谷さんと久保山の奥さんと、むつ屋の田代さん四人でございます、それが四人共孫の為に東京行きをしておるという感じだそうです。
見るとその熊谷さんが見事な帯をです、きちっとこう締め上げられておるのが印象的であった。久保山の奥さんはお孫さんと、後に二人おんぶしとられる、前に一人負うとられる、一人かかえとられる、まあ後に二人前に一人、そらーあーたそげん、それが一生懸命で負うておられる、そしてから あらこりゃお孫さんは後前孫さんで、あら久保山の奥さんはめっからん、全然消えておんなさらんじゃないですか、ち、両方の子、孫達にですね、こう両方から消えてなくなっておられるというお知らせだった。
田代さんは と見ると昔の丸髷 日本髪、両方三つこう山があると、ありゃなんでしょうか、あの、その髪を結うておられる、そして前の方に丸くしとるでしょうが、あれがですね、まるきり絶壁の様にその髪が前のこうふくらかげが、ふくれておらずに絶壁の様に突き立っとるところだったと、こう髪が、
私は最近田代さんの信心の中に、そういう様なものを感じます。もう以前の田代さんじゃないです、そのかわり、おかげを受けておられます、ねえ、例えばこうやって、みどり会員でありながら、みどり会にも出席が出来られない、奉修員がこうやって総代讃、みどり会の方達があっておるけれども、それにもまあ、あまりの「
」の様にしか出席できない 思うよりも二日に一辺、三日に一辺になる様なこともあるけれども、御造営という事についての、突き立った心というものは、誰にも矢張り劣らない働きと、御用が実際出来ておるという事、なる程そうだとこう思うたですね。
突き立っておる、久保山の奥さんがです、もう本当に今現在その事だけでもです、二人のお孫さん、まあ、陽子さんが田主丸の方行っとりますから、こまかつはあちらに行っとりますけども、もう分らんとばっかりをもう、その それにとにかくね、以前の久保山の奥さんだったら出来やしないけども、信心で最近おかげを頂いておられるところにです、もう本当に自分という者をむなしゅうしきって、子供たちの為に、孫達の為に、自分という者をむなしゅうして信心をすすめられておる。
敬親会でもあり、婦人総代でもある熊谷さんがです、十五年間椛目に、吉井からお参りし続けられた、こりゃ、信心の帯をしっかりとしとられなければ、ひとつり根性がなからなければ、出来るこっちゃない、そういう様なものを、私に求めたもうのであろうと、こう高山さんは云っておられます、ねえ、田代さんのごたる御用が、「 」出来るじゃろうか、お前とこの 言わば家庭の複雑な問題を、自分の後前にひっかろうてでも、自分をむなしゅうなるという様なおかげを、今こそ高山の家に頂かなん時であろうが、まちっと どうか本気で信心の帯をせんかと、こういうておられると、私に云うておられると私は思うといっておられます。それを矢張り受けて立つとか、答えるという信心が、要求されとるわけじゃないでしょうか。
次に、みどり会の方達と私を含めて、みどり会 いや、私というのは高山の奥さん、どうも八女のあのお茶のある茶園、茶山というですか、茶山の感じです。
そこへ皆んながお茶摘みに行っておる、ところがその、お茶摘に行っとるけれどもそのお茶がです、どうもあの、花橘と云う感じだったお茶じゃない ね、しかもこの御用がです、天地につながるという、天地につながるというてその、神様はこんなに高い、こう天地につながる道といった様なものを、こう示して下さる、そして、これは なかなか登りにくいけれども、これを横から見てみ、というてその、横から縦の道を横にこうして下さったら、立つという字になった。
あー 此の横の方のこの道ならば、横の方のこの道ならば通れるなあ、しかもこの道ならばですね、この道ならば通れる、しかもこの道が天地につながる、通う道であるならば、これを登らにゃなるまいと、いうとるところで目が覚めた。
なら違う、もうひとつそのみどり会の前後の人達がです、もうそれっこそもう、まあこれは私の言ですけども、あちらが云われるのは、もう こげなよかもんやら、こげなよか帯やらが何処から買うてきなはったじゃろか、いうならば、あの歌舞伎座にお芝居でも見に行くような感じだった。
みどり会の方達が只、もんぺ姿で、あの絣の上下もんぺで っと私一人だと いわゆる高山さん一人だと、他の方達皆んなもうそこに があったり障子があったり、あの障子の向こうでまあやつしよんなさる 着よんなさる、その着物が見事な着物を着てから、アラみどり会の方達は、こげなこつで夫茶摘がでけなはるじゃろうかというところで、目が覚めた。
どうでしょうか、胸にブスブスくる様な事はないでしょうか、みどり会の者は何をなしよるか、総代会が何をなしよるか、只一週間に一辺こうやって御祈念をしよる、ということが特別の修業でもさして頂きよるという様な事であったら どうなる 縦につながる、天地につながる道と云うのは、神様、私 そして皆さん と云う様なことであろう。
よこの道というね、皆さんが横につながる、信者同志が手をつないで行かれるという事である、その事を私、只今の御祈念中に思わせて頂きましてから、神様にその事を思わして頂きよりましたら、御心眼に頂くのはです、大根をこうやって抜きよるところを頂いたそしたらこ のくらいのところで、ひきよう悪かもんじゃけん、ぷつっと切れたとこじゃった、しかもその大根が、このくらいばっかりの大根に、葉だけはこげん大きか大根じゃなかじゃろうか、というごと ハアーッとしこったところだった いわゆる葉ばかりながらしっぽけなしという大根だと、私は思うた、これは私、私を含めてです、椛目の信者は ねえ、昨日次長 所長が見えられましてから あの 御造営のところをご覧になって素晴らしいと、あれは、言わば葉のところだけを見られた様な感じがあるんです。
実際その内容があるか、その内容たるや 例えて云うならば七十八円の、椛目の全財産と云う様な状態じゃないかと ね、内容がない 椛目が愈クローズアップされる、いや、されておるけれども、表面だけのクローズアップされて、内容がクローズアップされたらそれこそ、アーこのくらいなことかということになってしまうのじゃないかと、私は思うです。
皆さん本気でもんぺばきがはまる時、今より埴る時はないです。私が一年、例えば御本部での修業をよぎなくされる事でございましょう、ねえ、けれどもその間です、神様が思い立っておられるところの御造営だから、ねえ、神様がなんとかして下さると云うような安易な腰掛けた感じ、人の顔色ばっかり見とると いう様な事ではなくてです、各々が本気でですねえ、神様のそうした神ながらな働きと同時に、相まって本気で皆さん、椛目の中心だけでも填まらして頂くところの信心、いわゆる人間の力の限り、いわゆる人ながらの働きと、神ながらの、そうした神様の働きが一つになって、渾然とした働きが、又は信心がです、でけてそれが一つの御成就という事になり、私も教師の資格を頂いて帰り、椛目の御造営の方も成就になり、皆さんの信心も、此の御造営によって、皆さんの信心も造営がでけたというところの、おかげを頂いた時です、初めて おかげという事じゃなかろうかと、久保山先生が仰る。 いいえ先生がおられなくても椛目の者はです、ねえ、それこそ貧乏ゆるぎも致しません、微動でも致しませんて ねえ と、私は各々がいえれるだけの信心を高めて頂きたい。
葉ばかりながら しっぽけなしという信心から、葉も生き生きとしとらなければいけません ね、けども もっと見事であるという様なおかげを頂きたいもんだと、いう風に これは私を含めてなんです ね、私を含めて なる程おかげばっかりの先生から、中身のある先生に、見かけばっかりの皆さんの信心から、内容の伴った信心というものがです、身についてくる事を願いとしなければならない、どうぞ 特別奉修委員と特別の御祈念をするというだけにとどまらず、特別の そのための修業その事がです、私はもんぺばきに填まらして頂くのじゃなかろうかと、こう思うですね。
どうぞ。